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「本能寺の変」は「忠臣蔵」になりえるのか

 

麒麟がくる』が最終話を迎え、一週間。

今まであまり語られてこなかった明智光秀側からの戦国は新鮮で、この光秀像がこれからのスタンダードになっていく予感をさせる良い大河だった。

そして1週間分の余韻も携えて、土曜昼にやっている再放送も見、またも「良かったなあ」という想いに耽りっていた。そこで、ふと、『麒麟がくる』が始まる前に期待していたことを思い出した。

 

それは「本能寺の変は、忠臣蔵になりえるんじゃないか」という期待だった。

 

 

忠臣蔵の特殊性

忠臣蔵の説明は省くが、自分も含めた平成生まれ世代には馴染みのない作品ではあるのでこのコンテンツの特殊性ついては軽く記しておく。

忠臣蔵というコンテンツの最大の特徴はマンネリを前提としているところにある。極論すれば、視聴者が一から百まで話の内容を知っている上で成り立つと言える。

視聴者は松の廊下で吉良上野介が斬りつけられることも知っているし、苦渋を舐めつつ耐え忍んでいる四十七士が討ち入りの末、仇討ちを成すのも知っている。物語は全て把握した上で、役者の演技、演出の違い、即ち解釈の違いを楽しむというコンテンツである。

「〇〇が演じる大石内蔵助がよかった」や「〇〇が吉良?ちょっと不安だな」という忠臣蔵の楽しさは、そのまま大河ドラマの楽しさと共通していたりもする。現に大河ドラマ忠臣蔵は『赤穂浪士』(1964年・第2作目)『元禄太平記』(1975年・第13作目)『峠の群像』(1982年・第20作目)『元禄繚乱』(1999年・第38作)と繰り返し扱われている題材である。

 

 

忠臣蔵は歌舞伎の時代から幾度となく語りなおされ、誰もが知る古典となったことでこういう楽しみ方が可能になった。他に近いものはシェイクスピアの劇や、大河ドラマも前述の通りそういう域に達してきている。

しかしこれからそういうコンテンツを生み出すとすると、それが古典化するまで数十年の時間を要するかもしれない。そのため、そのコンテンツは数十年の時間を耐えうる強度を持たなければならない。となると、やはり歴史上の事件を扱ったものの方がいいだろう。現在の話はいずれ古びていくが、既に過去の話なら既にから古びている。(とはいえ忠臣蔵は上演された当時には時事問題だったわけではあるが)

 

忠臣蔵にはなにが必要か

ではここで、忠臣蔵的な物語に必要な条件をいくつか書き出してみよう。

 

  1. それぞれのキャラクターにそれぞれ差別化された個性がある。またハッキリとした悪役がいる
  2.  劇中は耐え忍び続け、クライマックスにはそのストレスを昇華させるようなカタルシスが用意されている。
  3.  物語の流れ(歴史的事実)はハッキリとしているが、その間の人間模様や動機には解釈の余地が残されている

 

条件1は「どの役者がどの役を演じるのか」という面白さを生む土壌になる。また何度も語りなおされることを考えた時に、どの登場人物の視点から見るか、切り取るかによって多くの切り口を生み出すことができる。

条件2は忠臣蔵の面白さの本質であり、強みでもある。常識的に考えると、視聴者がこの先に何が起きるか知っている状況はあまりよくないように思える。しかし最後には特大のカタルシスを用意していると知られている場合、むしろこの状況が有利に働く。通常なら客を逃さないため、こまめに小さなカタルシスを用意しておき、観客の興味を持続させようとする。だがネタバレありきの状況においては、むしろそこで視聴者のストレスを発散させないという手を選択できる。作り手は視聴者に我慢を強いるが、視聴者は最後にやってくるカタルシスを味わうため、そのストレスに耐える。それは同時に、不遇な状況に置かれた大石内蔵助らに感情移入し、共犯意識を植え付けることにもなる。

条件3は意外と重要。物語が毎回同じでマンネリ化していたとしても、その語り口が毎度違えばそれは別の作品になる。これは長い時代を生き延びるために必須だ。そこの自由度が高いほど、その物語に多種多様な切り口を反映することができる。忠臣蔵も忠義心を強調させるものもあれば、その正反対のものもある。時には大石内蔵助を会社の中間管理職に重ねたり、ラブロマンスを強めに打ち出すことも可能だ。

 

大きくこの3条件が忠臣蔵的な物語には必要に思える。

 

本能寺の変の適正

さて長い長い前置きは終えて、本題の「本能寺の変」に入ろう。

本能寺の変」という題材はこの条件を全て満たしている

  1. 光秀、信長、秀吉、家康と華があり個性も豊かなキャラクターが揃っている。また本能寺の変をクライマックスに据えるのであれば、主役は実行者の明智光秀悪役は殺される織田信長以外にはないだろう
  2. カタルシスは言うまでもなく、本能寺の変
  3. この点も本能寺の変は満たしている。歴史の事実としては残っているが、光秀がなぜ謀反を起こしたのかはハッキリとはわかっていない。その他にも秀吉の中国大返しなど謎は多く残されたままだ。その点と点を結びつける線の軌道の自由度は高い

色々な歴史的事件と比較しても、その知名度と条件の一致具合を見るに「本能寺の変」こそが最適だろう。忠臣蔵になりうる素質を持っているとすれば本能寺の変を置いて他にない。

 

では『麒麟がくる』はどうだったか 

その観点から言って『麒麟がくる』はどうだっただろうか。

まず明智光秀を主役に据え、本能寺の変をクライマックスに置いて大河を1年渡りきったのは間違いなく大きい。絶対的な鬼才 信長を前にする常識人 光秀という構図はこれからのスタンダードになっただろう。そして明智側から見た場合の重要人物として、これまではあまり顧みられてこなかった足利義昭、そして帰蝶が存在感を発揮したのもよかった。

 

素晴らしい作品だったというのを強調した上で、事前の機体のような忠臣蔵的な作品にはなっていなかった。

忠臣蔵的な物語で最重要なのはクライマックスのカタルシスであることは何度も書いた。本能寺の変カタルシスとしては十分だったと思うが、そこに至るまでのストレス負荷が思いの外小さかったのだ。それはハッキリと作品意図の元に行われているものでもある。

麒麟がくる』において光秀を本能寺へと突き動かしたものは信長への恨みや危機感よりも、自分が生み出してしまった怪物への責任感が強かった。そのため信長への憎悪の直接の起因となったと言われる家康の饗応役を降ろされるくだりも比較的あっさりで、光秀の責任感の純度を高めるチューニングがなされている。光秀と視聴者へのストレスを高めるなら、光秀の母お牧の死に様を描いてもよかったはずだが、今回は省略。その代わり帰蝶との会話が最終前話に置かれ、斎藤道三の継承者として信長への落とし前をつけることが強調されている。

 

これはこれで真摯な明智光秀の物語であり、文句は全くない。

そして『麒麟がくる』の功績によって、光秀を主役とした本能寺の変は題材として定着しただろう。そこの功績は本当に大きい。

もしも次に「本能寺の変」が描かれることがあれば、どんどんとストレスがのし掛かり、首も回らなくなった状況でついにクライマックスとして本能寺に向かう作品が出ればと思う。もしそうなれば『麒麟がくる』の功績も合わせて忠臣蔵のような強度を持った題材になりうるかもしれない。

そのためには、光秀の物語を何度も何度も語り直していかなければななれない。

 

 

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