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ワザリング・ハイツ 〜嵐が丘〜 | 無限にも拡がる荒野という閉鎖空間 、「映画」として初めて紡がれる『嵐が丘』

ワザリング・ハイツ 〜嵐が丘〜 Wuthering Heights

 

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原作がある作品について話すとき「映画化」「映像化」というように言葉を使いわけるようにしている。この二つは似て非なるものだ。

 

ヨークシャーで生まれ育ったブロンテ家の次女、エミリー・ブロンテが書き上げた『嵐が丘』は幾度となく映画化されてきた。自分は『嵐が丘』という作品の大ファンで、その映画化作品もいくつか見てきた。その中には良い作品もいくつかあった。だが、それらは嵐が丘』の「映像化」でしかなく、「映画化」されたものとして満足いくものはなかったように思う。

 

しかしこのアンドレア・アーノルドが監督をした『ワザリング・ハイツ 〜嵐が丘〜』をもってして、初めて『嵐が丘』は映画化されたと言えるかもしれない。

 

 

 

作品の内容の話に入る前に、まずは自分の考える「映画化」と「映像化」の線引きをはっきりとさせておきたい。

この2つの差を簡潔に記してしまうなら「他メディアの原作(小説・漫画・戯曲など)を映画向きのフォーマットに脚色(アダプテーション)しているか」ということになる。

小説には小説ならではの、漫画には漫画ならではの表現方法がある。もちろん映画もそうだ。反対にいえば小説向きではない、漫画向きではない表現というものも確実に存在する。小説を原作として映画にする場合、原作遵守の名の下に小説向きだが映画向きではない表現をそのまま通すのか、原作を改変し映画向きの表現に置き換えるのか。作り手は原作と映画の狭間でバランスを取ることを求められるのだ。

そうして映画としての表現が損なわれても原作を遵守する作品「映像化」原作の題材を映画的に表現するため改変も厭わない作品「映画化」と自分は位置付けている。

 

ただし「映画化」と「映像化」どちらが良い・悪いという優劣はつけられないという点だけは注意しておきたい。原作の忠実な「映像化」で素晴らしいものも存在すれば、原作の核を外してしまった「映画化」というものも存在している。どちらが偉いという話でもないのだ。

例えば、1939年のウィリアム・ワイラー監督、ローレンス・オリヴィエ主演版の『嵐が丘』は原作を遵守した「映像化」アプローチを取った作品ではあるが、素晴らしい映画だと思っている。*1

とは言いつつも、自分個人としては映画は映画用の表現で語られるべきだとは思っているのだが。

 

 それを踏まえて、このアンドレア・アーノルド版の『嵐が丘』(以降2011年版)は間違いなく「映画化」を目指した作品といえるだろう。

 

本来の『嵐が丘』はネリーというその土地の生き証人でもある家政婦の口から、親子孫三代にわたる歴史が語られていくという形式をとっている。そのため殺伐として寡黙なはずの物語に、どこか饒舌な印象も受ける不思議な味わいが生まれていた。

その形式と限られた舞台だけで進むという作りもあり、原作の台詞をそのままトレースする、演劇的なアプローチが取られやすかったのだと思う。前述の1939年版もその意味で質の高い作品だった。

 

しかし、この2011年版『嵐が丘』はそのネリーをお役御免することで、その演劇的になりがちな呪縛から逃れている。これまでの映画版の多くは、とはいえネリーの目から見た『嵐が丘』という形は守っていたが、2011年版は主役であるヒースクリフにカメラが寄り添い、徹頭徹尾ヒースクリフ視点から物語を紡いでいく。原作ファンとしてはネリーが役目を失い、ただ居るだけの人になってしまったのが残念だが、これによって映画表現としてのアプローチの幅は一気に広がった。つまり台詞の比重を減らし、映像によって表現する割合が増えたのだ。

結果としてこの作品は『嵐が丘』は本来そうであるはずの寡黙さを手に入れた。本来はこういう殺伐として、口数の少ない作品だったはずだったのだ。ヒースクリフは特に。

今までの『嵐が丘』が文学的・演劇的アプローチの呪縛で遂に手にできていなかった残酷な静けさをこの2011年版は有している。

 

他にもこれまでの作品で常に不満に思っていたところがある。

幾つもの映画版の中で嵐が丘」という土地を正面から描いた作品があっただろうか

強いていえばピーター・コミンスキー監督、ジュリエット・ビノシュレイフ・ファインズ主演の1992年版『嵐が丘』にその要素が垣間見えたというくらいだろうか。

物語の核が嵐が丘の住人たちの人間模様であることには間違いない。だからといって、嵐が丘はただの舞台ではない。その土地の人々、キャサリンヒースクリフ人間性嵐が丘という土地によって形成されている。ただの舞台立てではないのだ。

 

アンドレア・アーノルドは人間ドラマと等価かそれ以上に、嵐が丘というロケーションをフィルムにおさめようとしている。そのスタンスはテレンス・マリックに近い。

どこまでも続く荒野、立ち込める薄霧、刺すように降り注ぐ雨に、泥濘んだ地面と汚れた靴、そして沈黙を埋めるように吹き付ける風の音、軋む家の音。

この嵐が丘では残酷なまでの自然と人間の営みが隣り合っている

そして我々観客は視覚と聴覚を通じ、その嵐が丘を擬似体験する。それは不完全な追体験でしかなく「映画を見た」という行為でしかない。しかし霧がかかった朝は肌寒く、闇夜に降り注ぐ雨は痛いほどだった。そう感じさせるほどに、この映画の自然描写は研ぎ澄まされている

 

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こういう雄大な自然を撮る場合は横長のシネスコ(1 : 2.35)のフィルムを選択するのが定石だろう。だがこの作品では正方形に近いスタンダードサイズ(1 : 1.37)が用いられている。それによって、せっかくの風景が見切れるような印象を受けてしまう。

だがこの窮屈な画面がまた嵐が丘らしさを生んでいる。たしかに荒野は無限にも拡がっているように思えるが、それは人間にとっては閉鎖空間に等しい。逃げ場はなく、ポツンと建つ古屋の中で暮らすしかない。

どこまでも拡がる荒野の中がゆえの閉塞感を表現する上で、この画面サイズ選びは的確だ。被写体であるヒースクリフはその画面の中で常に窮屈そうだ。カメラは常に彼のすぐそばにいる。少女時代のキャシーもそうだった。二人は窮屈な画面の中で身を寄せ合っていた。しかし時が経ち、キャシーはその画面に適応してしまう。まだ窮屈そうなヒースクリフに対して、キャシーは全身がおさまるフルショットが多くなり、バストショットにしても適正な距離感になっている。画面に適応することを通して、キャシーは嵐が丘に、社会に適応したのだと思い知るヒースクリフは適応できないまま取り残される。

これこそが、まさに映画的な表現嵐が丘』の映画化だ

 

 

こういう形式であるため、従来よりは役者たちの印象が薄くなった印象派はある。

今回は1939年版と同様キャシーの死を持って作品を閉じており、さらにその子供世代の話は切られている。2時間の映画に収めるにはここで切るのは適量だという判断だろう。そのためキャシーとヒースクリフの子供時代が作品の6割程度を占める。

ここで子供時代のヒースクリフを演じたソロモン・グレイヴ、キャシーを演じたシャノン・ビアーは素晴らしかった。また大人になってからのキャシーを演じた、今や売れっ子のカヤ・スコデラリオの佇まいは自分が原作で想像していたキャシーに最も近かったと思う。とはいえ大人時代に入ると『嵐が丘』特有の激情とも言える二人の感情が表に出てこないので、あっさり風味に終わってしまった印象は否めない。ここは演劇的なアプローチの方に軍配が上がるところだろう。特にヒースクリフを演じたジェームズ・ハウソンは顔が柔和なこともあり、ヒースクリフの悪魔のような冷酷さを感じられなかった。それを意図的に感じさせないようなバランスというのもあるかもしれないが。

 

ヒースクリフがハッキリと黒人のキャラクターとされていることに関しては、現代的に解釈するのであればそうなるだろうというところだ。ヒースクリフの出自は謎に包まれており、その人種もはっきりとはしないキャラクターとされている。ネリーらはヒースクリフをジプシーだとしているが、黒人であるという解釈も無論成り立つ。

 

総じると『嵐が丘』の映画化として痒いところに手が届いたような作品だった。

一方でその映画化の代償として新たに痒みを感じるところもあったのは確かだが。中でも自分のような原作のファンであれば細部のディティールまで味わい尽くすことができるが、原作を未読の人がこれだけを見て『嵐が丘』がどういう話だったかと正確に把握できるのかは疑問である。初心者には優しくない作品にはなっている。

ヒースクリフとキャシーの間で決定的にボタンが掛け違わってしまうシーンも、劇中では肝心のキャシーの台詞が登場しないという処置になっている。原作好きとしては、後の意外な回収によってニヤリとしてしまうが、原作を知らない人はキョトンだろう。

 

とはいえ『嵐が丘』の「映画化」として、ひいては古典的文学作品の「映画化」のアプローチとして価値ある試みだったと思う。

自分の中では、この作品が『嵐が丘』の映画版になった。

 

最後に、こういう日本未公開の作品を見る機会を与えてくださったGucchi's Free Schoolさんには感謝しかない。これからも色々な作品を楽しみにしています。

 

 

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*1:ただし1939年版『嵐が丘』は原作では折り返しに当たるキャシーの死をめいっぱい美化してエンディングにするいかにもハリウッド的な脚色がなされている。そういう意味で巧い「映像化」であり、下手な「映画化」でもある