Weeping Gorilla makes Complaints | 泣きゴリラの泣き言

映画を中心にゲーム、本、ドラマなどについて

カポネ|アル・カポネはアルツハイマー、信用ならざる語り手と隠し子

カポネ Capone

f:id:issee1:20210228093803j:plain

 

 

youtu.be

 

ジョシュ・トランクが帰ってきた。

思春期×超能力アクション×ファウンド・フッテージという斬新な『クロニクル』(2012)で一躍、時の人になるも、次作『ファンタスティック・フォー』(2015)が興行的・批評的にも大撃沈。それにより決定していたスター・ウォーズ『ボバ・フェット』のスピンオフ企画もおじゃん。キャリアが潰れてしまった、と思われたあのジョシュ・トランクが、新作映画をこさえて帰ってきた。

 

 

監督が自身の3作目として、起死回生の一手として選んだのは「最晩年のアル・カポネだった。曰く「アル・カポネの最晩年を印象主義的に見る*1」作品とのこと。

なるほどたしかに、そういう風体の、率直に言えば変な映画になっていた。

 

アル・カポネについての説明は不要だろう。禁酒法時代にあらゆる悪事の頂点に立ち「暗黒の大統領」と呼ばれるほどの力をもった伝説的なギャングである。

 

映画との相性もよく、時にヒーローとして、時に倒すべき巨悪としてくり返し描きなおされている。

ギャング映画全盛期には『犯罪王リコ』(1930)民衆の敵(1931)をはじめカポネをモデルにした作品が量産される。彼を追うFB捜査官 エリオット・ネスを主人公に据えたTVドラマアンタッチャブル(1959~1963)は大ヒット。ここでのカポネは絶対的な悪役として君臨する。もちろんブライアン・デ・パルマのリメイク『アンタッチャブル』(1987)も忘れてはならない。

だがやはりアル・カポネと映画といえば彼の異名「Scarface」を題名に取った『暗黒街の顔役(原題: Scarface)』(1932)と、またもデ・パルマによってリメイクされたスカーフェイスだろう。1932年当時はまだまだリアルタイムだったので主人公の名前こそ「トニー・モンタナ」と変えられているが、誰の目にもアル・カポネについての映画だった。

 

仲間の裏切りにあい、一人機関銃を手に応戦するトニー・モンタナ。だが多勢に無勢の敵を前に、ついに死の瞬間が訪れる。彼の死体の上に輝くのは「The World is yours」という皮肉な看板の文字。

『暗黒街の顔役』および『スカーフェイス』はそのドラマチックなエンディングと共に映画史に残る名作とされている。

 

だが実際のカポネはそうではない。

彼はギャングの抗争や暗殺によって命を落とすのではなく、刑務所で発症した梅毒とどんどんと進行していったアルツハイマーと戦いながら死を迎えた。映画的にはドラマチックではない死に様だ。ジョシュ・トランクはそこにこそドラマを求めた

 

はっきりと言って「カポネの晩年」は掘ってもあまりドラマが出てこない話だと思う。ゴッドファーザーマーロン・ブランドがオレンジ畑のほとりに座って以降の部分で映画を作るようなものだ。

そこでジョシュ・トランクはカポネ自身の妄想や回想などを投入し、無理にもドラマを生み出そうと頑張っている。

 

そういう構成なので『カポネ』も「どこまでが現実でどこからが妄想なのかわからない」という点で有り触れた変化球の一つになってしまっている。それも、『ファンタスティック・フォー』でまだまだ演出力の未熟さが露呈してしまったジョシュ・トランクがやっているので、全体にとっ散らかった印象は拭えない。途中で重要そうに出てきたモチーフが最後まで回収されずに終わったり、面白くなりそうな展開もそれっきり二度と触れられなかったり。やはり背伸びせずに、自分の等身大でやりたいテーマを選ぶべきではなかったか。『クロニクル』はよくできた映画だから好きなんじゃなくて、その荒削りさが魅力だったのに。

 

と、思っていた。

だが、このとっ散らかった虚実の錯綜が次第に味わい深くなってもきた

この映画の語り手はもちろんアル・カポネその人だ。だがカポネは作品が始まった段階で既にアルツハイマーが相当に進行しており、周囲とのコミュニケーションもままならない。その彼の視点から見えている世界が、ルール度外視で描かれる虚実入り乱れた世界と一致していく。普通の感覚だと「ここは流石に現実だろう」というゾーンまで虚が侵入し、逆も然りの事態がおこる。もはや規則性すら認められなくなった観客には正真正銘の「どこまでが現実かわからない」状態に突入するのだが、心身疲弊仕切ったカポネの状態はまさにそういう感覚だったのだろうと思う。

「信頼できない語り手」という手法は映画では難しいとされているが、この作品は意図的にか図らずにか成功してしまっている。散文的に色んな妄想がくり広がれらていく、一般的なシナリオではご法度とされているものがアルツハイマーの人の脳内」という免罪符によって許される。そう考えると、巷に溢れるそういう作品からは一線を画したと言っていいのかも知れない。

 

その果てに行き着くクライマックスの、とある展開は素晴らしかった。

フィクションを通して観客が創り上げた「ギャング」としてのアル・カポネと、病に蝕まれ自分が誰かさえも喪失しかけている実際のアル・カポネのギャップが痛烈なまでに映し出される、その滑稽さと物悲しさ。

周囲のイメージと実際の自分のギャップで苦しむ姿というのは、ジョシュ・トランクその人の苦しみでもあるだろう。それがまさに映画だからこその表現によって描かれるこの一連の場面だけで一つ見る価値はあった。ジョシュ・トランクという作家の叫びがそこには見てとれたからだ。

 

とはいえ、やはり基本は退屈な話ではあるし、全然巧くはない作品なのは事実だ。

それでも見続けていられるのはトム・ハーディの作り込まれた(すぎた)演技のおかげだ。特殊メイクとアル・カポネのモノマネ演技は序盤はかなり気になるが、馴染んでくればその奥にあるトム・ハーディの演技に魅了される。失禁してしまったことに気づいた表情や、人の話を理解しているのか、聞いてないのかわからない丁度狭間のリアクションも見事だった。

 

f:id:issee1:20210228123318j:plain

 

そのカポネを介護する奥さんのメエを演じたリンダ・カデリーニの演技も素晴らしい。特にベッドで…なシーンのリアクションなど。そう考えるとやっぱりギャング映画というより介護映画なので、ハネケの愛、アムール(2012)なんかを想定して見にいくのが正解なのかも知れない。

また脇を固めるのが円熟してさらに味わいをましているマット・ディロンカイル・マクラクランということで、演技面では全く心配せずに見ることができる。この地盤の硬さは大きかったと思う。

 

予告などで大々的に使われているFBIがカポネの隠し予算を狙って調査しているという展開はたしかにあるが、そこまで本筋とは絡まない。宣伝のためになんとか面白そうなところを膨らましたのだろう。それも致し方ない。

 

ただこの映画でカポネにとっての「バラのつぼみ」として扱われるのは、隠し子のトニーという存在だ。このエピソードはおそらく創作だと思われるのだが(情報が見つからなかった)、これは一体なにを意味しているのか。

その子は1948年頃で18歳くらいなので、1930年ごろに生まれた。カポネが逮捕されるのと入れ替わりくらいだ。30年といえばギャング映画隆盛期の始まり頃と重なる。

そこで形作られたアル・カポネ像が晩年のカポネを苦しめている。

隠し子の名はトニー…。トニー…モンタナ?

 

決してよくできた映画だとは言わないが、ジョシュ・トランクという作家の可能性は十分に示した一本だとは思う。なんせ『ファンタスティック・フォー』よりは面白い。

状況も状況なのでアメリカ本国では配信になってしまったのがとことんついてない。日本はなんとか公開してくれているので、せめて映画館で見て供養してあげてほしいと思う。