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悪魔はいつもそこに |素晴らしい役者たち、だが脚色はもう一つ

悪魔はいつもそこに   The Devil All the Time

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 オハイオ州のノッケンスティフという田舎町、そこに男が一人帰ってくることで物語は始まる。時は第二次世界大戦集結の少し後、その男ウィラードもその地獄から帰還したばかりだった。映画は主人公をウィラードから息子ラッセルへと移り変わりながら進み、時代はベトナム戦争へと跨っていく。起きていることだけ取れば「田舎町で起こる暴力に満ちた話」でしかないが、見終えて振り返ると2つの戦争に挟まれた50年代という時代を象徴的に描いていたようにも思えてくる。

 

 

 小さな範囲で起こっていく物語でも登場人物はやたらと多い。ウィラードとアーヴィンのラッセル父子の話が主軸ではあるものの、いくつかの話が並行で語られていく。ウィラードの戦地の記憶を抱えながらも家庭を築き、無惨にもそれが奪われる話の一方、セックスと殺人、その様子をフィルムに収めたポルノ写真の撮影に明け暮れるカップルについても物語られる。後半で主役がウィラードから息子ラッセルに移ると、新しく赴任した牧師の神の名の下に働く悪行の数々が描かれ、一方ではその町の保安官が選挙のためにあれこれと陰謀を張り巡らす姿が描かれる。

 それらのエピソードに通低音として流れているのは「暴力」「神」。しかもその2つが分離することなく共存している。アメリカの田舎町ということでキリスト教の信仰は根強い、支配と言ってもいい。だが標榜される世間通俗的な「善きこと」の薄皮を一枚剥げば、暴力と男根主義がまかり通る醜悪な実態が露わになる。男たちは「神の名の下に」という免罪符を得て、都合よく暴力を行使している。それがこの田舎町を蝕む病理であり、50年代という時代を蝕む病理だった。戦争と戦争の間は平和だったのではなく表面上はそう整地されていただけでしかない。被せている幕をめくれば、同じように暴力が蠢いている。

 

 「Make America Great Again」と唱えられる世相において「その時代は本当にGreatだったか?むしろ醜悪じゃなかったか?」と冷や水をかける点で、見た目よりこの作品は時事的だ。今、作られるべき意義のある作品だと思う。

 ただその功績はドナルド・レイ・ポロックという人の原作によるものが大きい気もしている。原作を読んでいるわけではないのでどこまでがどうとは言えないのだが、見ていて「原作で読んだ方が面白いかもな」と思う瞬間が何度かあった。

 並行していくエピソードが必然的に繋がっていくわけではなく、むしろ一期一会に相見えるという構成は映画より小説向き。小説のようにじっくりとその人物たちの描写を積み上げて行って、ついに相見えるからこそのカタルシスが生まれるはずなのだが、映画はそれをするには時間が短い。せいぜい2時間では積み上がるものも積み上がりきらない。

 起こる出来事も地味で小さく、描かれるタイムスパンに対して時間は足りないのに登場人物が多いというのも付け加わる。そうすると登場人物たちは深まり切らないまま、それぞれの運命が交差を迎えてしまう。ならばいっそラッセル家の話に焦点を絞る、あるいは尺を3時間くらいにした方がいい。とはいえラッセル家の話だけでは輪をかけて地味になるだろうし3時間に耐えうるほど面白くはないだろうが…

 そうなるとやはり、そもそも映画向きな題材ではなかったという結論に至ってしまう。

 

 全体としては勿体ない印象が強いが、役者たちの演技は概ね素晴らしかった。

トム・ホランドロバート・パティンソンビル・スカルスガルドセバスチャン・スタンライリー・キーオジェイソン・クラークヘイリー・ベネットミア・ワシコウスカ、と並べるだけでも豪華俳優陣といった感じ。

そもそも実力のある人たちの集まりではあるのが「この人、こういうのもいけるんだ」と新境地を見せる演技が多く見られた。

 

 まず主演のトム・ホランドはすっかり定着した「親愛なる隣人」イメージを脇に置き、かなりダーティなことも辞さない若者を演じ切った。その生い立ちから人を容易には信用しないキャラクターなのだが、その表情の奥には優しさや弱さが見て取れるバランスはトム・ホランドだからこそのものだった。そして50年代が舞台ということもあり、ハッキリとジェームズ・ディーンも想起させるトム・ホランドジェームズ・ディーン路線、結構アリだぞ。

 

 今年は『TENET』で完璧な男前ロバート・パティンソンが見られたが、この作品も全く別の方向で完璧なロバート・パティンソンを切り取っている。神の名の下に自分の性衝動、暴力衝動を行使する最低最悪な牧師を演じているのだが、これのなんとハマることか!顔もいいし言ってることもそれっぽいが中身の空っぽな男を演じさせると現行で右に出るものはいないんじゃないか?と思えるほどの名演。立ち姿、発声、どれをとってもそういう人なのだが、それでいて周囲の人を抱え込むだけの説得力もある。その悪行は色々とあるのだが、出てきてすぐのレバー炒めを巡る物言いが最低で、最高だった。

作品全体では色々あるが、この演技を引き出せた時点で一つ勝利だと思う

 

 ライリー・キーオは最近よく見るのだが、自分としては『アンダー・ザ・シルバーレイク』のイメージが強い。今回は地元でかわいいと評判の女の子だったのに、いつの間にか殺人とポルノ撮影の山車に使われていく様を演じる。初めのうちは自分の承認欲求を満たすためのモデルとしての振る舞いが見れ、ここはいわばライリー・キーオのお家芸のようなもの。驚いたのは数年経っての荒んだ姿。メイクや衣装に助けてもらっているのはあるものの、最初の表情一発で彼女の荒んだ内心までわかってしまうような気がした。「絶望ではなく、退屈」という空気感が素晴らしい。また彼女のその空気が、あの田舎を象徴している。作品全体の閉塞感、停滞感を最も表現していたのがライリー・キーオだった気がする。

 

セバスチャン・スタンが演じる保安官の役は、作中でも一番美味しくない役だと思う。主人公のアーヴィンと鏡像関係のようでもあり、アーヴィンの行き着く先のようなキャラクターでもあるはずが、描かれる尺が短いのもあって、よくわからないキャラクターになってしまった。クライマックスも重要な役回りが用意されているのだが、そこまで見ている側にキャラとして深まっていないので「なんで急にコイツが?」という気分になる。

とはいえセバスチャン・スタンの新境地を見せようという気概は感じられた。お腹もビール太りにして、田舎の保安官の偉そうでいかにも自分が支配者だ面がハマっていた。ただセバスチャン・スタンはまだまだ男前路線ど真ん中で顔がつるんとしているので、少し背伸びをして演じている印象もあった。もう少し老けてきたら、こういう役はすごくハマると思う。

 

 錚々たるスター・キャスティングの中でも輝きを放っていたバイプレイヤーということでハリー・メリングの名前も挙げておきたい。ハリー・ポッターのダドリー坊やだった彼が、ここ最近は名脇役として存在感を発揮している。コーエン兄弟の西部劇短編オムニバス『バスターのバラード』でのリーアム・ニーソンとの一編も本当に素晴らしかった。今回はその敬虔なクリスチャンだったバランスを、もっと狂信的な方向に振ったようなキャラクター。これもまたいい!本作に『バスターのバラード』に、『オールド・ガード』の悪役だったりNetflixオリジナル作品のお抱え俳優になってきているハリー・メリングの、これからの飛躍を切に願っている。

 

 トータルで見ると残念な作品ではあったが、そもそもの企画が映画に向いていないとも思うので監督のアントニオ・カンポスに関しては評価を決めかねている。少なくとも演技は素晴らしかったのだが、これも役者それぞれの努力の結果という気もする。

Netflixオリジナルでよくある新人フックアップの作品でもあるので、その実力は次の作品ではっきりするだろう。

 

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