ヒッチャー ニューマスター版|象徴としての一本道、あるいはルトガー・ハウアーについて
なんとも映画館に行きずらい世相だ。
1月も2週目過ぎてやっとの映画館初めになってしまった。新宿にはあまり行かないので色々まとめて見ようと思い2本ハシゴ。本も無闇矢鱈と買い込んでしまった。探してた伊藤計劃のメタルギア ノベライズを中古で見つけてひと満足。
図らずも今年の一発目は旧作のリバイバルになってしまった。
ヒッチャー ニューマスター版
神が創りし究極の美、それがルトガー・ハウアー。そう聖書かなんかに書いてあったはず。意図的に作りでもしないとこんな完璧な見た目の人間は産まれ得ないと見る度思う。その究極の美の中でも究極なのはヴァーホーヴェン『女王陛下の戦士』の彼だと思うが。
てっきり70年代の映画だと思っていたが、86年の映画。よく考えればルトガー・ハウアーが渡米してきて以降だからそれもそうか。ロケーションも相まって全体には70年代アメリカン・ニューシネマの空気、でも演出は80年代スラッシャーホラーっぽさが感じ取れる。しかし内容から考えると意外なほどゴア描写は少なく、直接の描写は一つもない。
一本道が延々と続く荒野、という閉鎖空間で、主人公C・トーマス・ハウエルは殺人鬼ルトガー・ハウアーの怒りを買う。その後もずっと執着され、次から次へと怖い目にあう、『激突!』型のスリラーとでも言おうか。
ルトガー・ハウアーからすれば主人公を殺すなど容易なことで、主人公をあえて逃がし、掌の上で転がし続ける。この主人公がいかにも80s童顔というか、ラルフ・マッチオ的というか。とにかく逃げた先でまた殺されかけ、罪をなすりつけられて警察に追われと散々な目にあっていく。
それにしても、このルトガー・ハウアーを見てると不思議な気持ちになってくる。
コイツはいったい何者なんだろう。
序盤でジョン・ライダーと名乗りはするが、それ以外は全くの正体不明。その名前も本当かどうかわかったもんじゃない(最後まで言っちゃうと、映画が終わってもコイツが何者だったのかハッキリとは明かされない)わかっていることは、ひたすら続くハイウェイでヒッチハイクをしては、乗せてくれた人々を惨殺し、次の車を求めて親指を立てる、ということだけ。
主人公に執着はするが、常に追いかけてるわけではない。むしろ野放しにしている時間の方が長く、唐突に現れ、嵐のようにその場にカオスを引き起こし、気がつけばその場から消えている。残った後には大量の死体と、主人公が犯人としか思えないような状況証拠のみ。
コイツは誰なのか、なぜこうも執着するのか、なぜ殺してるのか。
さっぱりわからない。
「そういうジャンルの映画なんだから理由なんか大した問題じゃないでしょ」といえばそりゃそうなんだけど、このルトガー・ハウアーは明らかに変なんだ。
この感覚に近いものを挙げるとすれば『ノー・カントリー』のアントン・シガーとか『イット・フォローズ』の“それ”とか。つまり、実体のある存在であると同時に、なにかを象徴する存在であるかのように思えてくる。
どこかで待ち構えていて、その予感は常に感じている。そして突然現れる。
ジョン・ライダーは「死」の象徴かもしれない。「理不尽」でもいいかも。
そう考えると拾い物のジャンル映画だったこの作品の見方も変わってくる。延々と続く一本道という舞台立ても象徴めいて見えてくる。主人公は運悪くジョン・ライダーを拾ってしまうわけだが、どうも見ているこちら側には「運悪く」という感じはしてこない。一本道を走っている以上、遅かれ早かれジョン・ライダーを乗せざるをえなかったという気がする。
そしてジョン・ライダーに襲われて以降も主人公は道を進み続ける。
別に引き返したって良いはずだが、それはしない。観客としても引き返すという選択肢は不思議と「ない」とわかっている。なんなら荒野なんだから命の危機になれば道を進む必要もないはずだ。道以外を進めばジョン・ライダーから逃れる手はあっただろう。でも主人公と観客は律儀に道を進む。そして所々にあるガススタンドやダイナーに安息を求めては、安息地はカオスと化し、また道を進むしかなくなる。
主人公が道に縛られる代わりにジョン・ライダーは荒野に車を走らせ、姿をくらませる。作中でジョン・ライダーだけが道から外れることを許されるのだ。
そして観客も主人公も、最後には自らの手でジョン・ライダーとの戦いに蹴りを付けなければいけないと感じるようになっていく。それはエンタメ映画のセオリーだからってだけなのかもしれないが、アイツを倒さないとこの道は延々と続くような気もしてしまっている。
主人公が意を決した時、主人公の進路が下手から上手ではなく、反対の上手から下手、引き返す方向に変わる。そう考えると、やはり進み続けるしかないという感覚は映像演出によって埋め込まれたものだ。
逃れられない道で、絶対にその存在は付き纏い、いつかは相対さなきゃいけない。
荒野と道という抽象化されたとも取れるシチュエーションと、明らかに人間を超えた存在に見えてしまうルトガー・ハウアー。この象徴化された物語を描くための座組みなのか、あるいはこの座組みを作ったせいで、そう見える映画になってしまったのか。
とにもかくにも、この映画は不思議な境地に行ってしまっている。
『ノー・カントリー』のアントン・シガーもまた象徴化された人間だったが、あの映画は面構えからその高尚さが滲み出てしまう。『ノー・カントリー』をその辺のジャンル映画と見る人はいないだろうし、いるならそれは見る目がない。
『ヒッチャー』はあくまでジャンル映画だ。その有象無象に作られたその手の映画の中で突然変異か、計画的にか現れた特異な一本だ。
普通に楽しい殺人ヒッチハイク映画として見たって全然いいのだが、自分にとってジョン・ライダーは心を騒つかせる。ホラー映画という一種のファンタジーではなく、この恐怖はどこか他人事じゃなく自分にも降りかかるもの、いつか自分も相対さなきゃいけないものとして感じてしまうのだ。